ホーム >> 伊藤博文

伊藤博文
伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日(1841年10月16日) - 明治42年(1909年)10月26日)は、日本国の初代内閣総理大臣。
大日本帝国憲法の起草に関わり、初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長・韓国統監府統監・貴族院議長・兵庫県知事(官選)を務めた。 立憲政友会を結成・初代総裁。 元老。 位階勲等は従一位大勲位。 爵位は公爵。 称号は名誉博士(エール大学)。
諱は博文(ひろぶみ)、幼名は利助(りすけ)、のち俊輔(春輔、舜輔)とも称した。 「春畝(しゅんぽ)」、「滄浪閣主人(そうろうかくしゅじん)」などと号し、「春畝公」と表記されることも多い。 (諱の博文を「ハクブン」と有職読みすることもある)
アジア最初の立憲体制の生みの親であり、またその立憲体制の上で政治家として活躍した最初の議会政治家として評価され、「明治の元勲」と呼ばれる。
生涯
幼年期 - 挙兵
周防国熊毛郡束荷村字野尻の農家、林(はやし)十蔵の長男として生まれる。 母は秋山長左衛門の長女、琴子。 家が貧しかったため利助(のちの伊藤博文)は12歳ころから奉公に出されたという。 父・十蔵が長州藩の蔵元付中間水井武兵衛の養子となり、武兵衛が安政元年(1854年)に周防国佐波郡相畑の足軽伊藤弥右衛門の養子となり、伊藤直右衛門と改名したため、十蔵、博文の父子も足軽となった。 吉田松陰の松下村塾に学び、高杉晋作、井上聞多らと倒幕運動に加わった。
文久2年(1862年)には公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策し、イギリス公使館焼き討ちに参加するなど尊王攘夷の志士として活躍した。 また、山尾庸三とともに塙次郎・加藤甲次郎を暗殺した。
文久3年(1863年)には井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉らと共に長州五傑の一人としてイギリスに渡航するが、留学中にイギリスと日本との、あまりにも圧倒的な国力の差を目の当たりにして開国論に転じ、翌元治元年(1864年)、四国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知ると、井上とともに急ぎ帰国し戦争回避に奔走するもかなわず、下関戦争(馬関戦争)が勃発する。 戦後は和平交渉に通訳として参加した。
長州藩が第一次長州征伐(幕長戦争)で幕府に恭順の姿勢を見せると、高杉らに従い力士隊を率いて挙兵。 後に奇兵隊も加わるなど各所で勢力を増やして俗論派を倒し、正義派(革新派)が藩政を握った。

-
明治維新 - 初代首相
維新後は伊藤博文と改名し、長州閥の有力者として、また英語に堪能な事を買われて参与、外国事務局判事、大蔵兼民部少輔、初代兵庫県知事(当時の県知事は民選ではなく官選であった)、初代工部卿など明治政府の様々な要職を歴任する。 大蔵兼民部少輔を務めた際には、大隈重信と共に殖産興業政策の一環として、鉄道建設を強力に推し進め、京浜間の鉄道は、明治5(1872)年5月に品川―横浜間で仮営業を始め、同年9月、新橋までの全線が開通した。
当初、伊藤が新政府に提出した『国是綱目』が当時新政府内では極秘裏の方針とされていた版籍奉還に触れていたために大久保利通や岩倉具視の不興を買い、また大蔵省の権限を巡る論争でも大久保とは対立関係にあった。 だが、征韓論争では「内地優先」路線を掲げた大久保・岩倉らを支持して大久保の信任を得るようになった。
大阪会議を斡旋し、大久保が暗殺された後に内務卿を継承し、維新の三傑なき後の指導者の一人として辣腕を振るう。 明治14年(1881年)政府は、明治23年(1890年)に国会開設を約束し、伊藤は憲法制定や、先進国の政治の調査のためにヨーロッパへ渡り、オーストリアのウィーンで、憲法学者のローレンツ・フォン・シュタイン博士の講義を受け帰国後、初代枢密院議長として大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たす。 明治18年(1885年)に近代的な内閣制度を創設。
内閣制度移行に際し、誰が初代内閣総理大臣になるかが注目された。 衆目の一致するところは、太政大臣として名目上ながらも政府のトップに立っていた三條實美と、大久保利通の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し内閣制度を作り上げた伊藤博文だった。 しかし三條は、藤原北家閑院流の嫡流で清華家の一つ三條家の生まれという高貴な身分、公爵である。 一方伊藤といえば、貧農の出で武士になったのも維新の直前という低い身分の出身、お手盛りで伯爵になってはいるものの、その差は歴然としていた。 太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では、誰もが口をつぐんでいる中、伊藤の盟友であった井上馨は、「これからの総理は赤電報 (外国電報) が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三條を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。 英語力が決め手となって伊藤は初代内閣総理大臣となった。
のちに枢密院議長、貴族院議長などに就任。 4度にわたって内閣総理大臣を務めた。
明治33年(1900年)には立憲政友会を創立し、初代総裁を務める。 立憲政友会はその後、立憲民政党とならぶ2大政党の1つとなり、大正デモクラシーなどで大きな役割を果たすまでに成長した。
日露戦争では、日露協商論・満韓交換論を主張し、ロシアとの不戦を説き、同時に日英同盟に反対した。 講和後は、戦後処理に奔走する。 伊藤は後に、ハルビンで暗殺される前の歓迎会でのスピーチで「戦争が国家の利益になることはない」と語っている。

-
韓国統監府初代統監就任 - 暗殺
明治37年(1905年)11月の第二次日韓協約(韓国側では乙巳保護条約と呼ぶ)によって大韓帝国が日本の保護国となり、韓国統監府が設置されると初代統監に就任した。 日本は実質的な朝鮮の支配権を掌握した(広義の日本統治時代として植民地時代35年と保護国時代5年をひとつながりでとらえることもある)。
伊藤は国際協調重視派で、大陸への膨張を企図して韓国の直轄植民地化を急ぐ山縣有朋や桂太郎、寺内正毅ら陸軍軍閥と、しばしば対立した。 また、日韓併合について、保護国化による実質的な統治で充分であるとの考えから当初は併合反対の立場を取り、1909年7月に韓国併合の基本方針が閣議決定されてもなお「本格併合は将来的な課題」として早期併合に反対していた伊藤だが、統監であったことが韓国国民の恨みを買うことになり、結果的に暗殺へと繋がることになる。
明治42年(1909年)、統監を辞任、枢密院議長に復帰したが同年10月、ロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフ(ココフツォフ)と満州・朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れたハルビン駅で、韓国の民族運動家安重根によって狙撃され、死亡した(安は直ちに捕縛され、共犯者の禹徳淳、曹道先、劉東夏の3名もまたロシア官憲に拘禁され、日本政府はこれを関東都督府地方法院に移し、1910年2月14日、安を死刑に、禹を懲役2年に、曹および劉を懲役1年6ヶ月に処する判決が下された)。 11月4日に日比谷公園で国葬が営まれた。
ただし、日本では「実行犯である安重根自身の取調べ供述において事実誤認、李氏朝鮮および当時の韓国国内の情勢への不理解も見られ、また当時の韓国最大の政治勢力であった一進会(自称会員100万人)が日韓合邦推進派であった事から、この事件が韓国国民全体の意見を代表したものであったか否かは議論の余地がある」という意見が広く唱えられている(韓国併合#歴史認識の差異も参照)。
また、暗殺に関しては、安重根単独説のほかにも、暗殺時に伊藤の着用していたコートに残る弾痕から発砲位置を算出した結果、併合強硬派による謀殺説もある。 伊藤博文が暗殺されたことにより、朝鮮併合が結果的に加速したという議論もあるが、伊藤が司法権剥奪や軍隊の解散など併合に前向きな施策をしてきたことを考えると、一概にそうとも言い切れない。

-
伊藤の死に際しては、
日本に政治家多しといえども、伊藤のように世界の大勢を見て、東洋の平和を念じた者はいない。 実に伊藤はわが国(韓国)の慈父である。 高宗(大韓帝国皇帝)。
韓国人が公を暗殺したことは、特に悲しむべきことである。 何故かといえば、公は韓国人の最も良き友であった。 日露戦争後、日本が強硬の態度を以って韓国に臨むや、意外の反抗に逢った。 陰謀や日本居留民の殺傷が相次いで 起こった。 その時、武断派及び言論機関は、高圧手段に訴うべしと絶叫したが公ひとり穏和方針を固持して動かなかった。 当時、韓国の政治は、徹頭徹尾 腐敗していた。 公は時宜に適し、かつ正しい改革によって、韓国人をして日本統治下に在ることが却って幸福であることを悟らせようとし、六十歳を超えた 高齢で統監という多難の職を引き受けたのである。 公を泰西の政治家と比較するに、公はビスマルクの如く武断的でなく、 平和的であったことはむしろグラッドストンに類するところである。 エルヴィン・フォン・ベルツ(ドイツ・医学者)
我輩は伊博(伊藤博文の略)を平凡の常人なりとは云はない、されど彼の死は世界の大損失ドコロか、日本の小損失にもあらずとするのである。 (中略)明治十三四頃、國會願望者なる者全國に蜂起して東京に押寄せ、若し之を聴かずんば極端の暴動も起こるべき輿論の大勢に迫られ、餘義なく十年後を期して輿望を達せしむる事にしたのであって、在朝伊博の輩は、只其時代の要求に屈服したに過ぎないのである。 斯かる輩を指して立憲の大元首と賞揚するが如きは、往事迫害を恐れずして自由民権の論を主張せし民間の志士を無視するの甚だしき者である。 (中略)非命の死に同情を寄せて、死者を哀惜するのは人情の常であるから、我輩とても亦其事を非難しないが、其程度を過ごせし没理狂的の哀惜には寧ろ大反対である。 宮武外骨 などの評価がある。 宮武の評価は、時としては異例のものであった。 これまで伊藤を攻撃していたマスメディアまでも、その死に際して「伊藤公の死は日本の大損失である、否世界の大損失であると叫び、明治維新の大功臣、憲法政治の大元首、古今無類の大偉人を失ひたりと嘆き」と、伊藤を高く評価した。
死後
埋葬は東京都品川区西大井六丁目の伊藤家墓所。 霊廟として、山口県熊毛郡大和町束荷(現光市束荷)の伊藤公記念公園内に伊藤神社があったが、昭和34年(1959年)に近隣の束荷神社境内に遷座した。 記念公園には生家(復元)や銅像、伊藤公記念館、伊藤公資料館などがあり、桜に混じって韓国国花ムクゲが植えられている。 平成18年(2006年)5月、山口県はこの公園に隣接した山林に、森林づくり県民税で「伊藤公の森」を整備して光市に引き渡した。 後に日本銀行券C千円券(1963年11月1日 - 1984年11月1日発行)の肖像として採用された。
韓国では、安重根が国権剥奪の元凶・伊藤博文をハルビンで狙撃した義挙から100周年に当たる2009年10月26日に合わせ、新しい記念館をソウル南山にある現在の記念館付近に建設することを計画している。

-
人物・業績
明治天皇との関係と苦悩
4度も内閣総理大臣を務めた国家の重鎮・伊藤と明治天皇の関係は常に順風満帆であったわけではない。 明治10年代、天皇は元田永孚・佐々木高行ら保守的な宮中側近らを信任したため、近代化を進める伊藤ら太政官首脳との関係は円滑でない事もあった(後年、伊藤が初代の内閣総理大臣と宮内大臣を兼ねた背景には宮中保守派を抑えるとともに、天皇に立憲君主制に対する理解を深めて貰う側面もあった)。 また、伊藤が立憲政友会を結成する際には政党嫌いの天皇の不興を買い、その説得に苦慮したという。
上記のように明治天皇と伊藤との間は、常に順風満帆であったわけではないが、明治天皇は伊藤を信頼していた。 明治天皇の好みの性格は、お世辞を言わない無骨な正直者で、金銭にきれいなことだった。 伊藤はこれに当てはまり、伊藤に私財のないことを知った明治天皇は、明治31年(1898年)に10万円のお手許金を伊藤に与えている。 日露戦争開戦直前の御前会議当日の早朝、伊藤に即刻参内せよという勅旨が下り、伊藤が参内すると明治天皇は夜着のまま伊藤を引見し、「前もって伊藤の考えを聞いておきたい」と述べた。 これに対し伊藤は「万一わが国に利あらずば、畏れながら陛下におかせられても重大なお覚悟が必要かと存じます」と奏上した。 また、伊藤は天皇から「東京を離れてはならぬ」とまで命じられていた[11]。
女子教育
明治19年(1886年)、当時あまり顧みられていなかった、女子教育の必要性を痛感した伊藤は、自らが創立委員長となり「女子教育奨励会創立委員会」を創設した(翌年には「女子教育奨励会」となる)。 委員には、伊藤の他に実業家の渋沢栄一、岩崎弥之助や、東京帝国大学教授のジェムス・ディクソンらが加わり、東京女学館を創設するなど女子教育の普及に積極的に取り組んだ。 また、伊藤は日本女子大学の創設者、成瀬仁蔵から女子大学設立の計画への協力を求められ、これに協力した。
女子教育者であった津田梅子とは岩倉使節団で渡米のとき同じ船に乗ってからの交流があった。 日本に帰ってから梅子は伊藤への英語指導や通訳のため雇われて伊藤家に滞在し、伊藤の娘の家庭教師となり、また「桃夭女塾」へ英語教師として通っている。 梅子は1885年に伊藤に推薦され、学習院女学部から独立して設立された華族女学校で英語教師として教えることとなった。 また、梅子とは気が合ったのか、帰宅してから家庭教師の梅子と国の将来について語り合っていた。 伊藤からみれば梅子は同じ日本人の婦人というよりは、顧問のつもりであったという。
芸者好き
伊藤の女好きは当時から非常に有名であり、女性とよく遊ぶことから、「箒」というあだ名がついた。 また、宮武外骨の発行した一連の新聞では、好色漢の代表格としてパロディの手法を使い伊藤を度々取り上げた(それに次ぐのが、同じ艶福家として知られていた松方正義である)。 地方に行った際には一流の芸者ではなく、二流・三流の芸者をよく指名していたという。 これは、伊藤の論理によると「その土地その土地の一流の芸者は、地元の有力者が後ろ盾にいる。 そういう人間と揉め事を起こさないようにするには、一流ではない芸者を指名する必要がある」とのこと。 40度の高熱でうなされている時でも両側に芸者ふたりをはべらせたという。 もっとも、同じ女好きの松方とは違って伊藤にはそれほど多くの子供はできなかった。 衆議院議員松本剛明は子孫の一人。
民族衣装
扶桑社刊の『新しい歴史教科書』には、伊藤と妻の梅子が韓国の民族衣装を着ている写真がある。 韓国統監として韓国人の衣装を身に纏った。 伊藤はまた韓国皇太子・李垠を日本に招き、日本語教育を行っている。
操り人形
お雇い外国人であったドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツは『ベルツの日記』の中で、伊藤が有栖川宮熾仁親王の方を向き、「皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ。 生まれるが早いか、至るところで礼式の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と言いながら、操り人形を糸で踊らせるような身振りをしたことを紹介している。
通称の変遷
当初は自身の曽祖父「利八郎」と「助左衛門」から「利」と「助」をとり「利助(りすけ)」と名づけられたが「としすけ」とも読み、「としすけ」の音から「俊輔」とも書かれるようになり、そうなると今度は「しゅんすけ」と読まれることになり、その音から「春輔」とも表記され、こんどはそれが「しゅんぽ」と音読されたので、最終的に「春畝」を号にしたものである。
最近様子がおかしい
セフレ関係も終わりに近いのかもしれない。
|